石ころ部会 11月活動報告
活動内容:
恰好の紅葉狩り日和。近鉄奈良線額田駅裏の広場に部会員19名と地質学の佐藤氏が集合。生駒山を形づくる斑レイ岩(生駒石とも呼ばれる)の観察である。広場に置かれた4つの丸椅子は都合のよいことに斑レイ岩そのもの。先ずは、表面の斑晶の色や形を観察し、風化の進んだ側面を手で触り、この岩石の特徴を頭に刻む。準備体操の後、急坂を歩いて枚岡公園に入り、更に進んで額田山展望台(標高249m)に到着。途中2ヶ所で道路壁の土の表面に垣間見る斑レイ岩をしっかり観察。昼食後、眼下に拡がる大阪平野と淡路、六甲、北摂の山並みを見渡し、それぞれの地形の成り立ちに思いを巡らせる。帰路は枚岡神社まで別ルートで進む。途中、深紅の豊浦橋のたもとで立ち止まり、渓谷の佇まいと今が盛りの紅葉に息を飲む。若干疲れはしたが、枚岡神社で身も心も洗われ、心地よく生駒山を後にした。
見たもの、学んだこと
- 斑レイ岩は花崗岩や閃緑岩と同様、マグマが地下でゆっくり固まった深成岩である。晶析した結晶はマグマ溜まりに積み重なるように沈殿し固まる。主に有色(黒っぽい)のかんらん石、輝石と角閃石、無色(白っぽい)の斜長石の4種類の鉱物からなる。
- 生駒斑レイ岩は地下20㎞のマグマ溜まりの周囲の岩石を融かし込んでおり、斜長石は中央部に浮かび、角閃石や鉄鉱物などは下部に多く沈んで固結している。(今回の観察でも斜長石の多い白っぽい斑レイ岩と角閃石や輝石の多い黒っぽい斑レイ岩の2つのタイプを見分けることができた。)
- 生駒斑レイ岩は生駒山頂を中心に直径4㎞の範囲に分布し、その周りの低いところに花崗岩が分布している。
- 形成された年代は花崗岩が形成された白亜紀(1億~7000年前)より古いジュラ紀とされている。北摂の山々(丹波帯)もジュラ紀に形成されている。
- 約6000年前には河内平野に海が侵入し生駒山の麓まで海水で満たされ河内湾が作られた。当時は上町台地のみが南からの半島のような形で顔を出していた。
- 大阪平野の基盤(花崗岩)は地下2000mにあるが、現在の生駒山地の標高や今日までの山の浸食や平野部の堆積などを考えれば、この周辺は3000m級の山々が連なっていたと想像される。
- 約100万年前、六甲変動と呼ばれる地盤の激しい隆起運動が起こり、このため六甲や生駒・金剛、和泉の地域は断層を伴って上昇し、現在の山地となっている。生駒断層は活断層であり、直下型の地震が懸念される。
生駒山登山 額田山展望台を目指して
額田山展望台より大阪平野を望む (枚岡神社の紅葉)
斑レイ岩:主に角閃石、輝石、斜長石からなる
石ころ部会 10月活動報告
爽やかな秋晴れの下、南海高野線橋本駅に地質学の佐藤氏と部会員21名が集合。紀の川の河原の石ころ観察である。駅前の古い街並みを通り抜け、川沿いに約20分、橋本橋西詰の少し先まで歩く。河原への下り口は3年前と同様、背丈ほどの草むらになっていたが、先遣隊の草刈りにより無事、目的の河原に到着。北は和泉山脈、南は紀伊山地の山々、滔々と流れる紀の川の佇まいに心を和ませ、活動開始。先ずは佐藤氏による当地の石ころに関わる地質学的特徴のガイダンスの後、石ころの採取と分類となる。次いで、初めての試みとして、石ころの名前当てゲームに挑戦。各人が出題された河原の石ころ8個の鑑定結果を回答票に記入する。昼食の後、佐藤氏による鑑定の答え合わせと解説が行われ、成績の上位4名には記念の景品が贈られた。秋の陽ざしを存分に浴び、満ち足りた気分で河原を後にした。
見たもの、学んだこと
- 当地の地質学的特徴: 紀の川の源流は大台ケ原にある。当地は南側を紀伊山地、北側を和泉山脈の山々に挟まれている。このことから紀の川の南側や大峰山・大台ケ原方面からは四万十帯・秩父帯由来の砂岩、泥岩、チャートや結晶片岩、およびこれらよりずっと新しい時期の流紋岩などが当地に流れ着く。また、北側からは和泉層群由来の砂岩、泥岩、礫岩などが集まる。金剛山地の花こう岩類などは奈良県側に流れる川で運ばれてくる。
- 鑑定クイズの結果: 問題①から⑧の石ころ鑑定の正解は以下の通り
- 礫岩: 和泉層群の礫岩と推定される。礫岩の礫として砂岩やチャートが入っている.和泉層群が堆積していた当時(7,000万年まえ),これらの礫は丹波層群を起源とすると思われる(当時の日本はアジア大陸の縁にあり,現在の丹波山地などの地形はなかった)
- 結晶片岩: 色あいから緑色片岩ともいう。キラキラ光っているが、変成作用が少ないことから緑色岩、海底火山由来の玄武岩でもよい。
- 花崗岩: 石英、長石、黒雲母、角閃石などの斑晶が見られる。黒色の有色鉱物が多いから花崗閃緑岩と言うべきか。
- 泥岩: 正しくは赤色泥岩。赤色チャートもよしとする。(赤色の成分は酸化鉄)
- 砂岩: 典型的な砂岩。
- 流紋岩: 花崗岩のようにも見えるが、先の尖った対称性の高温型石英が見られることから流紋岩とみるべきだろう。成分的には両者同じであるが、冷却過程が違う。(写真参照:⑥の岩石にペンで〇をつけた)
- 泥岩: 黒色片岩もよし。泥岩が変成作用受けると黒色片岩になる。その過程かも。
- チャート: 典型的なチャート。大台ケ原由来のものであろう。
- 他に見られた石ころ: 上記の他に閃緑岩、斑レイ岩があった。
紀の川河原にて 石ころ鑑定風景
鑑定クイズ①~④
鑑定クイズ⑤~⑧
石ころ部会 9月活動報告
昨日迄のうだるような暑さが嘘のような、涼しくさわやかな秋空の下、部会員18人と地質学の佐藤氏が南海加太駅前に集合。城ヶ崎海岸(瀬戸内海国立公園)の地質観察である。駅前より歩くこと30分で目的地に到着。青く広がる空と海、緑なす山々と島々、絶景である。誰もいない公園の眼下には波に洗われた岩場(波食台)が拡がっている。ここで当地の地質学的なポイントについて佐藤氏のガイダンスを受ける。そして、階段を下りて波食台に向かう。足元が不安定な岩場を恐る恐る歩き、観察のポイントを見つめ、手で触り、思案し、時を忘れる。好天に恵まれ、多くを見て、学び、気持ちのよい一日であった。(今回は波食台の観察の為、日程を通常の第4金曜日から潮位の低い第4月曜日の9月22日に変更した)
見たもの、学んだこと
当地の地形
当地は中央構造線の北側にあり、和泉山脈の西端をなす。地層はこれまでに行った犬鳴山や滝畑と同じ和泉層群のものであるが、断崖や斜面ではなく波食台(海岸での波の浸食により出来た平坦な岩盤状の地形)があるため観察が容易である。
中央構造線
日本がアジア大陸の一部であった頃にできた横ずれ断層である。九州東部から四国、紀伊半島を経て、遠くは関東まで横断する世界第一級の断層である。地震の発生源となる活断層としての側面もある。
和泉層群
約7000万年前、中央構造線の北側が陥没することにより細長い海(海盆)が出来た。この海盆に土砂が砂と泥の層をなして堆積したのが和泉層群である。四国西部から紀伊半島にかけて中央構造線の北側に沿って最大幅15㎞、東西300㎞にわたって分布している。層の厚さは最大7000m。現在の和泉山脈はその後の地殻変動により隆起したものである。
砂岩・泥岩の互層の意味するもの
巨大地震により陸からの混濁流が海底に流れ込むと砂岩と泥岩の互層ができる。(100年から1000年に1回、巨大地震が起こるとすれば、7000mもの厚さに堆積するには何回の大地震があったのか)
波蝕台で観察したもの
- 地層の傾き
垂直とまではいかないが、45度以上のかなりの高角度である。
- ソールマーク
砂岩層の底にみられる模様。水流が泥の層を削る時に出来るスプーン状のフルートマークや、水流により小石などが海底を削った半円柱状(凸型)のグルーブマークなどがソールマークの一例である。
- 横ずれ断層
左横ずれ断層を確認。ずれ幅は2m程度か。これは中央構造線の派生断層であり、城ケ崎断層と命名されている。形成年代は不明。
城ヶ崎海岸と波食台
波食台:ソールマークの観察
波食台:地層の傾斜、横ずれ断層の観察
石ころ部会 6月活動報告
梅雨の晴れ間か、久々の青空の下、部会員22人と地質学の佐藤氏が地下鉄谷町九丁目駅に集合。上町台地の地形観察と天王寺七坂巡りである。
先ずは駅の北側にある高津宮を参詣した後、南に向きを変え、松屋町筋沿いに上町台地の西側斜面を歩く。最初の坂、(1)真言坂を確認してから生國魂神社を参詣する。生玉公園で佐藤氏による上町台地の成り立ちについての勉強会があり、昼食の後、(2)源聖寺坂を下り、(3)口縄坂を上がって大江神社に。そして(4)愛染坂を下りて、(5)清水坂を上がり清水寺へ。清水の舞台より市街を見下ろし、今ではビル群で埋め尽くされて見えないが、大阪湾に沈む夕日を思い浮かべる。その後、京都の音羽の滝ならぬ玉手の滝の前で暫し涼をとり、松屋町筋に下りる。(6)天神坂の上り口に安居神社(真田幸村戦死の碑)の階段があり、二手に別れる。その後、(7)逢坂を上がり一心寺で合流し、境内を通って市立美術館前の大階段前に集合。
眼下に拡がる大阪の市街地はかつて一面の海であったことに再度、想いを馳せ上町台地の変遷の総まとめをして解散。一部は茶臼山にも足を延ばす。上がったり下ったりの連続で大いに消耗したが、充実した一日となった。当日は大阪気象台の梅雨明け宣言もあり、いよいよ夏本番である。
見たもの、学んだこと
- 上町台地は約100万年前からのプレートの移動に伴う地殻変動により隆起し、その後の河川による土砂の堆積や海水の浸食などを経て今日に至っている。
- 上町台地は縄文の昔(6000万年前)、東に河内湾、西に大阪湾(瀬戸内海)が拡がる半島(海成段丘)を形成していた。周辺の地層からは様々な種類のクジラの化石が見つかっている。
- 上町台地の西斜面は縄文時代の海蝕により500-600m東に後退し現在に至っている。即ち、上町断層は現在の西側斜面より500-600m西に存在する。
- 上町断層は大阪平野を南北に縦断する活断層帯であるが、市内のボーリング調査による地質断面図(柱状図)をみると断層帯近くで地層が大きく褶曲しているのがわかる。
- 天王寺七坂の殆どは現在、花崗岩の敷石で舗装整備されているが、源聖寺坂や口縄坂では要所要所で部分的に溶結性凝灰岩も使われている。
さざれ石について
高津宮には古今和歌集で謳われたとされる「さざれ石」(石灰岩の角礫が固結した伊吹山産出の礫岩)が奉納されているが、真偽の程は不明である。本来、さざれ石とは小さな石のことである。「さざれ石の巌(いわお)となりて苔のむすまで」とは長い年月をかけて小さな石がひとつの大きな石になるように成長、即ち団結と繁栄を願って謳われたようである。岩石の名称としてさざれ石がある訳ではない。
高津宮、生國魂神社の茅の輪
天王寺七坂(花崗岩と一部は溶結凝灰岩で舗装)
縄文時代の大阪湾(波打ち際)
石ころ部会 5月活動報告
心配された雨もなく、まずまずの天気。会員25名と地質学の佐藤氏がJR福知山線北伊丹駅前に集合。歩くこと20分で軍行橋東詰めの猪名川と箕面川の合流地点に到着。
六甲や北摂の山々に囲まれた広大な川原は大小様々な石で埋め尽くされている(10㎝大が多い)。それらの石をおぼつかない足取りで踏み分け、踏み分け、岸辺に辿り着いて活動開始。先ずは当地の地質学的な特徴についての佐藤氏のガイダンスの後、石ころの採集、観察、分類が始まる。これまで石川や、大和川、紀の川などの川原の石ころを何度も見てきたが、猪名川の石ころは見た感じが大分違うことから、我々の分類もいささか心もとない。
畢竟、佐藤氏の最終鑑定では大幅な手直しとなり、鑑定の難しさを思い知る。照り返しのせいか、それとも石に当たったのか、少々ばて気味で、早々に本日の活動は終了。伊丹空港から飛行機が轟音とともに急角度で飛び立ち、空に消えていくのを何度も見る。若かったあの頃の空の旅に思いを馳せ、帰路に就いた。
見たもの、学んだこと
約1億年前(白亜紀中期)
当地周辺は海洋プレートの沈み込みに伴う火成活動が活発であった(西南日本内帯火成作用)。この結果として地殻の大部分は領家帯花崗岩や有馬層群の溶結凝灰岩で覆われている。北側(北摂山地)は年代的に更に古い丹波帯のジュラ紀付加体(砂岩、泥岩、チャート、石灰岩、緑色岩など)で覆われている。猪名川の石ころはこれらの地質を反映したものである。また、有馬高槻断層帯を筆頭に多くの断層がある。
石ころ鑑定の結果
佐藤氏により最終的に花崗岩、閃緑岩、流紋岩、緑色岩、泥岩、砂岩、泥岩砂岩のメランジェ、チャートの9種類に分類された。
量的には泥岩と砂岩が圧倒的に多く、泥岩・砂岩互層のものも多く見られた。一部は泥岩と砂岩のメランジェと判定された。メランジェ(メランジ、メランジュ)とは整然と堆積した地層が変形により混沌とした状態になったもので、プレートの沈み込みの際にできる付加体に多く見られる。
我々の分類で花崗岩としたものも多かったが、花崗岩に通常みられる明瞭な結晶が殆どないことから、佐藤氏は完晶質のものを細粒花崗岩とした以外は全て溶結凝灰岩と鑑定した。また、花崗岩らしいものでも石英を含まないものは閃緑岩とした。
猪名川の川原
石ころ部会 4月活動報告
今年度の石ころ部会の入会者は47人。うち、22人のメンバーが、薄曇りの空の下、地質学の佐藤さんと近鉄汐ノ宮駅前に集合。先ずは嶽山に向かって出発。道沿いの山藤が美しい。喘ぎ喘ぎ歩くこと30分で何とか中腹の願昭寺に到着。境内から羽曳野丘陵のパノラマを展望し、佐藤さんの説明を聞く。細長い台地が南北の方向に幾重も延びているのがよく分かる。眼下の高等学校辺りを山裾に嶽山は東側にそびえ立っているが、その地層は礫岩であるようだ。願昭寺の傍の登山口から山道を少し上ると、確かに30㎝から1m大の礫岩(花崗岩)が道を埋めているのが分かる。更に山道を登れば嶽山火山岩の露頭があるのだが、悲しいかな、老齢の身にこれ以上の山登りは荷が重く、観察を断念し、願昭寺に引き返す。
昼食後は石川に戻り、河原の石ころや汐ノ宮火山岩の露頭の観察を行う。露頭周辺の川底からはブクブクと泡(炭酸ガス)が出ている。佐藤さんは川底にペットボトルを逆さまに立ててガスを採取。着火した線香をペットボトルに差し込むと線香の火は消えた。湧水から放出された炭酸ガスのせいであろう。そして火山岩の観察であるが、柱状節理の見られる火山岩は大阪府下では当地のみ、河内長野の自然遺産候補でもあることから、ハンマーで叩くのは控え、周辺に落ちている岩片を拾っての観察である。見るもの、為すこと、盛沢山、有意義な一日であった。
見たもの、学んだこと
羽曳野丘陵
石川と東除川の間に挟まれ、藤井寺、羽曳野、富田林、河内長野を跨ぐ南北に長い丘陵(台地)である。海底に堆積した大阪層群の地層であるが、大凡100万年前に隆起したもの(上町台地や千里丘陵、枚方丘陵、泉北丘陵なども同様)。生駒・金剛山地なども同様にプレートの動きにより基盤(花崗岩)が南北長く隆起したもの。
河原の石ころ
佐藤さんの鑑定で最終的に11種類の岩石に分類された。 多かったのは花崗岩、砂岩、礫岩、チャート。他は閃緑岩、泥岩、安山岩、サヌキトイド、石英、片麻岩、凝灰岩。
汐ノ宮火山岩
二上山や嶽山と同時期(1500万年前)に活動した瀬戸内火山帯の溶岩が噴出した火山岩である。以前は玄武岩とされていたが、シリカ成分(SiO2)の分析から現在は安山岩に分類されている。この安山岩は長石の斑晶がなく、讃岐周辺のサヌカイトと似ていることからサヌキトイドとも称される。かんらん石や輝石の斑晶があることや、成分的にマグネシウムの多いのも特徴である(嶽山火山岩も同時期に噴出した安山岩質溶岩であるが、組成は微妙に異なる)。火山岩の下には花崗岩や安山岩の礫岩である。川底の火山岩の割れ目から炭酸ガスが湧出しているが、有馬温泉と同じくフィリピンプレート由来の深部流体であるようだ。
石ころ部会 2月活動報告
冬の寒さは和らいだものの、今にも降り出しそうな曇り空。20人が近鉄二上山駅に集合。歩くこと20分で二上山博物館に到着、直行組みと合流し、見学開始となる。当博物館は千数百万年前に大噴火を起こした二上山が生んだ3つの石(サヌカイト、凝灰岩、金剛砂)に焦点を当てた石の博物館である。パンフレットでは「全国初 旧石器時代文化を紹介する石の博物館」と謳っている。サヌカイトは石刀、石槍等の石器として、凝灰岩は古墳の石棺や寺院・宮殿の礎石として、金剛砂(ガーネット)は研磨剤(近年はサンドペーパー)の材料として用いられてきた。これら常設展示の他、冬季スポット展として「石器のふるさと(二上山北麓遺跡群とその周辺の遺跡)」の展示もあった。数多くの石の標本や遺跡の展示を見てまわり、プロジェクションマッピングシアターで二上山の噴火と3つの石の成り立ちの映像をみていると、あっという間に時間は過ぎる。
昼食後、二上山駅に引き返し、当麻寺駅に移動してから當麻寺までまた歩く(どうして駅と寺の表記が違うのだろう?:當は旧漢字、当は新漢字、駅名としては読み易さを優先したようだ)。本殿の手前には日本最古の石灯籠がある。風化が進んでいるが、よく見れば凝灰岩であり、歴史の重みを感じる。本堂のお参り、そして庭園の花々を見てまわる等、思い思いの散策をして当麻寺を後にした。歩数計は既に10,000歩を超えている。運動不足の我が身にはこれもまた貴重である。
見たもの、学んだこと
サヌカイト
約1300年前に瀬戸内地方に噴出した高マグネシウム安山岩質マグマを起源とする岩石の一種。全体が均質で斑晶(鉱物の結晶)が少ない。別名「かんかん石」とも呼ばれ、硬い棒で叩くと高く澄んだ音を出す。緻密な構造のため、割れた時には黒曜石のような鋭利な割れ口をつくるため、石槍や石刀として使われた。香川県や二上山地域に限って産出する。香川県の「県の石」になっている。
黒曜石と何が違うのか?
サヌカイトの安山岩質マグマに対して、黒曜石は流紋岩室マグマが急冷してできた岩石(ガラス質流紋岩)である。長野県や伊豆諸島、北海道などで産出される。
凝灰岩
火山噴出物が地上や水中に堆積して出来た岩石。ドンズルボーは二上山の火砕流が堆積して出来たもの。
金剛砂
柘榴石(ガーネット)であるが、二上山の噴火で生じた岩石に含まれており、その母岩の風化に伴って流出し、低地に堆積した砂れきに含まれている。鉄分が多く非常に硬いことから奈良時代以降、主に研磨剤として利用されてきた。
二上山博物館
當麻寺
石ころ部会 11月活動報告
爽やかな秋空の下、会員25名と地質学の佐藤さんの総勢26名が九度山駅前に集合。目的は紀伊丹生川河畔の地質と石ころの観察である。丹生川河畔まで約30分、六文銭の旗のはためく真田の道を歩く。途中、真田の屋敷跡である真田庵に立ち寄る。この一帯は三方を川(北は紀の川、西と南は丹生川)で囲まれた天然の山城であったそうだ。周辺の何軒かの民家の石垣や土塀が目に留まる。緑や黒、茶色、大小様々な石が標本のように埋め込まれている。全て地元の石なのであろう。総勢26人が民家の石垣の前に暫し佇む。観光の町としては珍妙な光景であろうが、佐藤さんの解説を聞き、質疑応答が始まる。これだけで今日の目的は半ば達成とも思えるが、丹生川と紀の川の合流地点まで更に歩く。紀の川を挟んで北は和泉山脈、南は紀伊山地の山々が悠然と連なり、目の前の川面は秋の日差しがキラキラと光る。川の両岸には緑色岩などの露頭がある。(先日の雨上がり時に見た時は対岸の露頭が緑色に染まり綺麗であったのだが、晴天の今日はそれ程でもない。)露頭の観察の後は川原に下りて石ころの採集と鑑定を始める。大小様々な石で埋め尽くされているが、概して緑や黒の大きな石が多い。近くの山の石であろう。見慣れない石が多く石ころ採集にも熱が入る。昼食後、佐藤さんの鑑定と説明を聞いた後、思い思いの石を手土産に晩秋の九度山を後にした。
見たもの、学んだこと
- 地質図でみると今回の観察地点は四万十帯に属する。その東側には秩父帯、西側には三波川変性帯が接している。また、紀の川を挟んで北側は和泉層群が広がっている。
- 四万十帯の四万十層群は砂岩、頁岩、チャートなどで構成されているが、海洋プレートの沈み込みに伴う強力な圧縮力により変形作用を受けている。
- 緑色岩は海洋性の玄武岩が変性作用を受けたもので、鉱物として緑泥石を多く含むと濃い緑色、緑簾石が多いと薄い緑色になる。
- 今回採取した石は最終的に佐藤さんにより砂岩、泥岩、赤色泥岩、チャート(以上堆積岩)、緑色岩、緑色片岩、黒色片岩、砂質片岩、珪質片岩(以上変成岩)と鑑定された。石灰岩らしきものもあったが、サンポール(塩酸溶液)には反応せず、石英質の岩石と判定された。(花崗岩が1個あったが、よその土地のものが紛れ込んだようだ。)
- 昨年9月に行った学文路近傍の紀の川と今回の丹生川の河原の石ころを比較すると:緑色岩はどちらの河原でも見られたが、丹生川の方が圧倒的に多かった。結晶片岩はどちらでも多く見られたが、紀の川の方がもっとキラキラと光っていた。紀の川では花崗岩や流紋岩などの火成岩も多く見られたが、丹生川では見られなかった。
石ころ部会 10月活動報告
爽やかな秋空の下、バスや車で18名が滝畑観光レストラン前に集合。主な目的はレストラン前(新関谷橋下)の渓流にある露頭の観察と、更に上流の荒滝及び周辺の地形の観察である。今回も地質学の佐藤さんに同行と解説をお願いしている。最初の難関は新関谷橋下の河床(南側)の露頭に辿り着くこと。水量も少なく長靴を履けば問題はないと思われたが、思いのほか苦戦。露頭に辿り着いたのは佐藤さんのみ。ここで佐藤さんから地形・地質の説明を受けた後、上流の荒滝まで渓流沿いの道を約1時間弱歩く。滝を見ながらの昼食も格別である。そして、滝と滝周辺の地形、地質の観察である。この地形がどのようにして出来たのか、佐藤さんの説明をヒントに、凡そ1億年前の地球の営みに思いを巡らせる。川のせせらぎと鳥の鳴く声に心も満たされ、滝畑を後にした。
学んだこと、見学したもの
- 滝畑は領家帯花崗岩類、泉南流紋岩類(主に溶結凝灰岩)、和泉層群の岩石が東西に分布している。
- 恐竜の闊歩する白亜紀(凡そ1億年前前後)、周辺の各地で火山活動による火砕流が発生し、泉南流紋岩類が堆積した(噴火口の場所は特定されていない)。また、地下では花崗岩質マグマが上昇し・貫入した。その後、地殻変動により東西に細長い海ができ、その海底に和泉層群が堆積した。(大阪の周辺の地質年代図参照:下の写真3)
- 滝畑地区では新関谷橋付近までは泉南流紋岩類が分布し、その上流を和泉層群の礫岩、砂岩、泥岩などが覆っている。光滝や荒滝などの滝畑の滝は和泉層群の浸食によりできたもの。
- 河原の礫岩は黒色のチャートや流紋岩などのかけらを含んでいる。このチャートはどこから来たのか? 近辺では大台ケ原(秩父帯)と摂津峡周辺(丹波帯)の2ヶ所にチャートの巨岩があるが、その何れかであろう。(佐藤さんは地質形成の年代と位置関係から滝畑のチャートは丹波帯のものと推定しておられる)
- 荒滝やその周辺の崖では砂岩の層(30㎝-1m?)が階段状に幾重にも積み重なった形態が見られる。それぞれの層は巨大地震などにより大きな地殻変動がある毎に陸上からの土砂が海底に堆積し、それが長い時間をかけて岩石になったものである。陸地に近いところでは礫岩、遠ざかれば砂岩、更に遠ざかれば泥岩となる。
写真3
大阪周辺の地質年代図
石ころ部会 9月活動報告
連日の猛暑もひと休止、明け方にひと雨あったのか、爽やかなハイキング日和である。近鉄室生口大野駅に火砕流堆積物の観察を目的に14名が集合。駅前から宇陀川に向かい、大野寺の対岸まで歩く。目の前の高さ15mの急崖には摩崖仏(鎌倉時代の弥勒像)が、少し手前には小ぶりの大黒天石仏(大正時代)が刻まれている。崖の岩石は室生火山岩であるが、凡そ1500万年前の火砕流堆積物だそうである。先ずは火砕流堆積物の成因などについて佐藤先生の説明を聞いてから、要所要所で露頭を観察し、室生ダムまでの坂道を歩く。ダム広場で昼食を摂った後、別のルートで大野寺前の河原に引き返す。ここで石ころの観察・鑑定を行って本日の予定は終了。太古の昔、この地で起こった壮大な火山活動に想いを巡らせ、室生を後にした。坂道の往復で疲れはしたが、充実した一日であった。
学んだこと、見学したもの
室生火山岩
今から凡そ1500万年前、大台ケ原近くのカルデラ火山の大爆発により火砕流が発生し、堆積したもの。堆積物は火山灰と軽石、石英などの結晶が高温によりガラス状に変質した溶結凝灰岩である。火砕流は数10キロ四方(西は玉手山周辺まで)を埋め尽くし、その高さは最大400m程度もあったが、その後の川の浸食作用や風化により現在の姿になっている。火砕流の規模としては阿蘇山が世界最大と言われているが、それと同程度であった。柱状節理が明瞭に見える。
柱状節理
火山から流れ出た溶岩や火砕流が冷えて固まる際に体積が収縮して出来る割れ目である。大野寺の前の河原の石畳には直径2~3mの六角形(または五角形)の割れ目が見えるが、これは柱状節理を上から見た断面である。急崖の縦の割れ目は柱状節理の側面である。火砕流は基盤岩である花こう岩の上に堆積し、柱状節理は低温の地面側から上に向かって形成された。ダム広場の一角にダムの建設時に移設された柱状節理が1本置かれているが、側面を下方向と上方向に撫でてみると、上から下にすべすべ、下から上にざらざらとした感触であった。柱状節理は時間の経過とともに下から上に形成されたことが分かる。
宇陀川の河原の石ころ鑑定
一番多く見られたのは溶結凝灰岩、次に多かったのは花こう岩(閃緑岩を含む)と片麻岩であった。他に、砂岩、泥岩、チャート、石英(石英岩、石英脈岩)も見られた。溶結凝灰岩は石英の結晶に富んだ灰白色の「白岩」と黒いガラス質の「黒岩」の二種が見られた。冷え方の違いによるようだ。