石ころ部会 7月活動報告
うだるような猛暑の中、13人が阪急箕面駅前に集合。本日は箕面川と箕面大滝周辺の石ころと地質の観察である。連日の猛暑で渓谷の涼を楽しむなど願うべくもないが、大滝までの2.7㎞の遊歩道は多くのハイカーで賑わっていた。我々は熱中症に気を付けながらも、佐藤先生の指導の下、河原の岩石や道沿いの露頭などをじっくりと観察することが出来た。特別天然記念物のオオサンショウウオを目にすることもできた。予定の観察を全て終えれば、心地よい疲労感が残る。この後は一杯のビールが待っている。そして、今晩から始まるパリオリンピックのテレビ観戦も楽しみである。それぞれの思いを胸に渓谷を後にした。
今回学んだこと、見学出来たもの
有馬高槻構造線
有馬温泉から高槻市市街地北部に至る長さ約55㎞の断層帯で、山地のすそ野に幾つもの活断層が並走、分岐している。北摂の山々はこの断層の活動により上昇した。1000年から2000年の間隔で活動しており、今も要注意。
泥岩やチャートの露頭、チャートと泥岩の互層をなす岩石
これらの地層は丹波層群と呼ばれ、今から約2~5億年前(中生代ジュラ紀)に遠洋の海底で堆積したもの。プレートの移動により陸地殻に付け加わったもので、付加体と呼ばれている。
断層(2つのタイプ)
- 泥岩の崖に幅20㎝の垂直の窪みがある。断層周辺の岩石は断層運動(逆断層)により、こなごなに砕けている。これは断層破砕帯であるが、活動時期は不明。
- 五月丘断層:南北に流れる箕面川がある地点で横にズレていることが分かる。これは横ずれ断層と言われる活断層。
箕面大滝
滝の崖側は緑色岩(玄武岩)、南の下流側は泥岩で成り立っている。岩石の硬度が違う(緑色岩の方が硬い)ことからから、泥岩が削られて段差となり、段差が拡大し今の滝となった。
火成岩脈(2つのタイプ)
火成岩脈は高温のマグマが岩盤に貫入して固結したもの。
- 泥岩に貫入した花崗班岩。風化したものは茶褐色で「箕面の赤石」と言われている。
- 流紋岩の岩脈:筋状の岩脈であるため非常に見つけにくい。
メランジュ
砂岩と泥岩の互層がプレートの沈み込みの際、高圧によりズタズタ(こなごな)に変形したもの。「写真では手を置いた薄い色の砂岩が上下の泥岩(暗色)に挟まれ、横(左右)方向で厚さが変わり、“コッペパン”のようになっている。これは“ズタズタ”の結果である。」
石ころ部会 5月活動報告
2018年の設立以来、石ころ部会は大阪周辺の山や河原での地質や石ころの観察を行ってきた。一転して、今回は大阪市立自然史博物館「花と緑と自然の情報センター」のネイチャースクエア「大阪の自然誌」のコーナーで、これまで野外で学んできたことを整理してみようという試みである。今回も佐藤隆春先生にガイドをお願いした。能登半島地震や南海トラフ地震などの話題の多いなか、大阪の地形の成り立ちについて、地震との関係から解説して頂いたのでいささか盛り上がった質疑応答となった。また、大阪の周囲から採取し、磨き上げられた大き目の岩石の標本は実際に手で触れられるように展示されており、我々が普段、拾う石ころとは大分様相が違って新鮮である。このコーナーは地質学関連以外にも樹木や野鳥、昆虫など大阪に生息する生き物の展示も充実しており、博物館や植物園を訪れた際には是非立ち寄りたい場所である。午後は各自が自由に特別展「自然史のイラストレーション」の観覧や植物園の散策を楽しんだ。
大阪の自然:まとめ
活断層と地震
プレートの動き等により、地下の深いところではひずみがたまっている。ひずみが大きくなると岩盤が壊れる。その時のゆれが地表に伝わったものが地震である。その時の岩盤のずれが断層である。過去260万年の間に活動したものを活断層という。大阪の平野や丘陵と山地の間には多くの活断層がある。
大阪のおいたち
凡そ100万年前に始まった活断層の動きによって1000年に1回ほどの間隔で地震を起こしてきた。断層に沿って土地は隆起し、地震の都度、山は高く、平地が低くなる。その結果、現在の北摂山地、金剛・生駒山地、和泉山脈などが作られた。(過去100万年に1000回の大地震があり、これらの山が出来たということか)
大阪湾沿いの低く平らな土地には1万年前より新たに粘土層(大阪層群)が堆積した。山から流れる川の働きで海は埋められ、後退し、現在の大阪平野ができた。粘土層はプリンのように柔らかい軟弱地盤であるため、大阪平野は地震に弱い。
大阪の岩石
大阪の基盤は基本的に花崗岩である。六甲や金剛・生駒の山々は花こう岩類であり、大阪平野も粘土層の下は花こう岩で覆われている。個々には:
- 北摂山地:2億年前の堆積岩(丹波帯、超丹波帯)。近畿では一番古い地層
- 生駒・金剛山地:8000万年前の花こう岩やはんれい岩、片麻岩など
- 二上山:1500万年前の噴火でできた火山岩と凝灰岩
- 和泉山脈:7000万年前の堆積岩(和泉層群)と花こう岩、流紋岩
- 大阪平野:200万年前から基盤岩の上に堆積した粘土層(岩石ではない)
(I.S)
石ころ部会 4月活動報告
4月、新たに入った会員を迎え、石ころ部会の会員数は48名。今回も昨年同様、石川の河原の石ころ観察である。24名が道明寺駅に集合、玉手橋を渡り河原に向かう。佐藤先生には当地周辺の地質図を基に、石川の上流から支流を含め、当地までの地質学的な特徴や観察される石ころの種類等の説明をして頂いた。先ずは所定の場所でめいめいが拾った石の分類を行う。そして佐藤先生による結果判定とポイントの説明となる。外観だけでは分からないのが石ころ鑑定の難しいところ、奥の深いところ。1年前の活動報告(R5年4月28日)を読み返すとほぼ同じ内容であることに気づくが、当時よりは全体的に観察力が上がっているようにも思われる。来年は更なる向上を期待したい。観察終了後、多くが葛井寺まで足を延ばし、藤の花見を楽しんだ。
観察のまとめ
- 最終的に佐藤先生の鑑定で分類された石ころの数は以下の通り:火成岩として流紋岩37個、サヌカイト2個、サヌキトイド20個、花崗岩36個、閃緑岩7個、溶結凝灰岩16個;堆積岩として礫岩30個、砂岩24個、泥岩2個、チャート33個であった。変成岩はひとつもなかった。他には石英が4個あったが、今回、収集・鑑定された石ころの総数は191個であった(個数は写真からの読み取り)
- 石ころの供給源としては流紋岩(全体の4%)が二上山由来または泉南流紋岩由来、花崗岩(18.8%)が金剛・大和葛城山由来と判断された。残りの大半53.9%(チャート17.2%+礫岩15.7%+砂岩12.6%+溶結凝灰岩8.4%)はほぼ泉南由来と判断された。
- 流紋岩の判別は比較的容易であったが、流紋岩の数個を安山岩に、9個を石灰岩に誤って分類していた。流紋岩は石英の結晶を含むが、安山岩にはないのがポイントのようだ。白色の流紋岩は石灰岩に間違われ易いが、石灰岩であればもっと表面が柔らかく滑っとしている筈であり、塩酸をかけて確認するまでもないとのことであった。
- 同様に花崗岩と閃緑岩も判別に迷うところであるが、これも花崗岩は石英の結晶を含むが、閃緑岩は含まないのがポイント。
- 溶結凝灰岩の判定も難しかった。決め手はレンズ状に押しつぶされた軽石の存在である。軽石は黒曜石になっている場合もある。今回採取したものは二上山の噴火によるものではなく、全て泉南流紋岩由来のものとされた。
(I.S)
石ころ部会 3月活動報告
昨夜来の雨も朝にはピタリと上がり、今日は日本最古のダム式ため池「狭山池」の散策と「狭山池博物館」の見学である。先ずは大阪市狭山駅から歩いて狭山池に向かう。池の周りを取り囲む五分から七分咲きの桜が青空に映えている。早咲きの品種「越の彼岸」が多く植えられているため、大阪府内では一番早く楽しめる花見のスポットなのだとか。
博物館内では3班に分かれ、ガイドさんの案内で狭山池の1400年の歴史をたどったが、驚きの連続である。狭山池は飛鳥時代につくられた人造のため池であると聞いて先ず驚く。そして目の前にそびえる高さ15m、幅60mの堤の断面に目を見張る。実際の池の堤から移築され、ポリエチレングリコール処理で固定されているのだとか。安藤忠雄の設計の博物館本体はそれを収容する形でその後に建築されたと聞いて更に驚く。堤の下の方には狭山池の水を下流に流す巨大な樋管がある。飛鳥時代の樋管はコウヤマキ製だそうであるが、腐食から免れ、造りたてのように輝いている。鎌倉時代には木製の他に石製の樋管も一部使われたそうだ。古墳時代の石棺を加工し、転用したものらしい。他にも様々な展示を見て回ったが、感嘆と驚きの連続であった。たっぷりと時間をかけてガイドさんに案内してもらったためか、見学の後に充足感がある。入場無料。何度来てもいい。
午後は令和6年春季企画展:土木遺産展「石をはこぶ-瀬戸内の石の島から大阪へ」を見て回る。大阪の石造構造物に多く使われている石の出どころはどこか、どのように切り出され、海を越えて大阪に運ばれ、利用されてきたのか、分かりやすい展示であった。今年度最後の石ころ部会も無事終了、三々五々、博物館を後にした。狭山池の桜も見事であった。(I.S)
石ころ部会 2月活動報告
そぼ降る雨の中、17名が近鉄滝谷不動駅に集合。午前は近傍の石川河床での立ち木化石やアケボノゾウの足跡化石の観察である。先ずは川端の児童公園で化石発掘調査に関わられた森山先生から発見の経緯や調査の結果、現状などをお聞きする。そして河床の観察。雨に濡れた護岸は滑り易く、下りるに一苦労。何とか河川敷に辿り着き、水面をよく見ればメタセコイアの立ち木化石が其処かしこにある。発見当時の足跡化石の多くはその後の川の浸食により消失したそうであるが、緑色を帯びた粘土層には足跡らしい窪みもある。目を閉じればメタセコイアの森や湿地帯を歩くゾウの群れが見えてくるようだ。専門家の案内なしには味わえない経験である。
午後は汐ノ宮の石川河川敷に向かい、汐ノ宮火山岩の観察である。雨は未だ止まず、火山岩の露頭には辿り着けなかったが、近距離から露頭を眺める。その火山岩はかんらん石や輝石を含む安山岩であるとの説明が佐藤先生からある。そして足元に点在する安山岩をハンマーで砕き、黒色の岩片に潜むかんらん石探しに興じる。宝石と言うには程遠いが、岩片にはオリーブ色の透明感のある粒子が点々とあった。
最悪の天候ではあったが、森山先生と佐藤先生の丁寧な解説と指導のお陰で充実した観察会になった。天気の良い時に再度訪れたい処である。
学んだこと
- 石川河床の立ち木化石や足跡化石は1984年に富田林高校理化部の生徒達により発見され、その後の発掘調査などによりその存在が学術的に証明された。
- アケボノゾウの足跡が見つかったのは大阪層群の中にあり、調査の結果、100万年前の粘土層の地層と判定された(市内ではキバや臼歯の化石も見つかっている)
- 当時は今ほど高くはない金剛山からの流水によりできた扇状地にメタセコイアなどの林が形成され、ゾウやシカが水を求めて歩き回る様がイメージされる。
- 汐ノ宮の火山岩(安山岩)はそれより遥か昔、1300~1400万年前に噴出した溶岩である。柱状節理が観察されるが、これは溶岩が固まる時に体積が収縮し、その時にできた五角形や六角形の柱状の割れ目である。
- 露頭の周囲にはヘリウムを含んだ炭酸ガスの湧出が見られ、泉源の成分は有馬温泉に近い。
- この安山岩はマグネシウムの多い高マグネシア安山岩であり、輝石とかんらん石を含むのが特徴で、非常に珍しいものであるが、近辺では嶽山山頂や寺ケ池周辺でも見られる。かんらん岩は地中深くのマントルを形成するものであるが、それが安山岩に含まれると言うことは安山岩が溶融した後に交じり合って上昇し、地表近くで固結したことを意味する。
(I.S)
石ころ部会 11月活動報告
寒波襲来と思いきや、ぽかぽかの小春日和。今年最後の部会活動に21名がJR高井田駅に集合。午前は歴史資料館と高井田横穴公園の横穴古墳の見学、午後は大和川河原(国豊橋近傍)の石ころ観察である。歴史資料館で縄文・弥生の土器や石器、古墳時代の埴輪や装飾品、江戸時代の大和川の付け替え工事関連資料などの展示を見た後、学芸員の越智さんと横穴古墳の見学に公園内を歩く。古墳造営の文化的・時代的背景や大正期の横穴墓発見の経緯などの説明を耳に、200基以上ある日本最大級の横穴墓群の中の数か所に実際に入って見学し、遠い昔の古墳時代に思いを馳せた。
午後は地質学入門である。佐藤先生から横穴古墳の岩盤(凝灰岩)や公園入口近くの広場にある置き石(花崗岩)についての説明を受けた後、大和川にかかる国豊橋まで移動し、河原の石ころ観察を行った。朝とはうって変わり、河原は強風の荒れ模様ではあったが、思い思いの石を拾い集め、先生に鑑定をお願いした。
今日も多くを学んだが、ポイントを整理すると
- 高井田古墳の岩盤は凝灰岩である。これは約1500万年前の大峰山・大台ケ原付近で起きた大規模なカルデラ噴火に由来するもので、室生火砕流堆積物と同じものである。当初はドンズルボーと同じように二上山の噴火に伴うものと思われていたが、岩質に違いがある。また、ドンズルボーの凝灰岩が幾層にも重なっているのに対し、高井田ではそのような層は見られない。即ち、1回の噴火で100mを超える堆積物ができたことを意味し、当時のカルデラ噴火の規模の大きさを物語っている。
- 公園入り口近くの広場に10数個ある大きな置石は古代の寺院(太平寺)の庭園の石を移設したものである。岩石の多くは花崗岩であるが、よく見ると縞状の模様の片麻岩に重なっているのが分かる。領家帯花崗岩と領家帯変成岩類が大阪平野の基盤岩であるが、地質年代的には約1億年前に変成岩(主に片麻岩)が高熱により形成された後、約8000万年前に花崗岩質のマグマが下から上昇・貫入したため両者が入り交ざった形になっている。花崗岩と片麻岩の両方がみられる理由である。
- 河原で集めた石ころは花崗岩、閃緑岩、斑レイ岩、流紋岩、安山岩(サヌカイト・サヌキトイドを含む)、砂岩、チャート、片麻岩、石英と鑑定され、5月に行った少し上流の亀の瀬での鑑定結果とほぼ同じであった。同じ大和川でも石ころの大きさや形は少し小さく、丸みを帯びているように思われた。今回は安山岩の他に片麻岩が多く採取されたが、縞状の模様やキラキラ輝いて見える粒子(黒雲母)が目を惹いたためか。
(I.S)